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一九三〇年六月七日、新装された移民船リオデジャネイロ丸の処女航海の式典が厳かに挙行され、一千二百人の移民を乗せて無数のテープが夕陽で錦色に映える埠頭をゆるやかに離れてゆく。この一刻は諸々の繊細な感情の響きを混じえた人々の声にひとしお感動をふかくした。船は次第に速力を増し埠頭と繋がっているテープを切り、見送りの人々の姿も小さくなり、やがて見えなくなってしまった。船は小島を次々後にして島一つ見えない大海に入った。日は暮れて仄かな月あかりに波頭が白くきらめいて夜の海となっていた。十一才の少女であった私は先程の感動は薄れ、一途に異国を見る好奇心でいつまでも甲板で夜の海を見詰めていた。
船酔いしない私は船首、船尾を元気で歩きまわり、食事時には船酔いで寝付いている母と姉に寝室まで食事を運んでから弟二人を連れて食堂で食事したり、入浴させたり、図書室で読書したりであった。
或る朝、甲板に上ると、一等船客十二、三人が各自に大きな紙袋を持って下の甲板で遊んでいる移民の子供たちに上から菓子を投げている。子供たちも歓声をあげつつ拾っている。私はそれを見た瞬間、ひどい屈辱を感じて父に告げるべく走った。父は風紀係で朝の船内巡回を終えて休んでいたが、報告を聞くとすぐ足早く甲板へ上って行く。私は後に従った。一等船客は盛んに菓子を投げている。子供たちも嬉々として拾っている。それを見た父は「お前たちは日本人の子である。人が投げた物を拾って食べるな、海へ投げ捨てろ」と一喝して一等船客を睨みつけている。子供たちは校長先生の訓示に従う如く一斉に海へ投げ始めた。一等船客たちは忽ち退いてしまった。父は其の場より船長室に入って行った。
赤道に近づくに従って暑くなるばかりで、赤道祭が終った頃より欠水病患者が続発しだした。四才の弟も微熱や吐き気があるので診察を受けると直ちに入院(病室入り)となったが幸いに五日間で退院して安堵した。しかし間もなくその病室から初めての死者が出て、次々十三人の死者が出、移民船では最も多数の死者を出した船となったのである。船内の葬式(水葬)は筆舌に尽きぬ儚く悲嘆窮まり、私は人生の悲惨な面で打ちのめされた如く気力が衰えて図書室にこもる日が多くなった。
十日程後には目的地ブラジル到着という頃、急性結膜炎(俗に言うはやり目)がはやり出した。元来目が弱い私が真っ先に罹り、次々に罹って、忽ち移民の八〇%が罹っていると言う。船内の目薬は一向に効果なく、私の目は悪化するばかり。船はリオ港に到着したが、眼病人を大勢乗せている船は埠頭に横付けできず遠くで止っていた。やがて白いボートで検疫医が乗り付けて甲板に上り、検疫が始まった。ところが異様な噂が流れてきた。それは「不合格者は送り帰す」ということである。私の状態は不合格確実で密かに一人心配していた。すると父が側に来て「おまえは不合格かもしれない、その時は姉たちと仲良く暮せ」と言う。日本には既婚の姉が二人居るが家族とは離れたくない。
父の顔を見上げると、目は涙で潤んでいる。私も涙で黙って頷くのが精一杯であった。
父は暫く心痛の面持ちで列に立っていたが、突然列より出て先方へ歩いてゆく。暫くして我が家族と似通った人たちを連れて来て、その人たちが我が家族の名義で列に並んで検疫を受けて合格したので、私たちは合格したことになったのである。従って家族と共に上陸できるようになり、あの時程うれしかったことはない。
父は、「姉たちと仲良く暮せ」と諭しはしても心底は年少の娘を離し難く、「替え玉」を思いつくまでの切羽詰った心情を思うとき、親の愛情の尊さに感謝の念で胸が張り裂ける思いがする。
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Este projeto tem a parceria da Associação para a Comemoração do Centenário da Imigração Japonesa no Brasil