Conte sua história › Yashiju sha › Minha história
"一九六〇年五月ブラジル移民を乗せる大きなオランダ船チサダネ号を初めて見たのは神戸港でした。それまで移民収容所で八日間を大勢の人達と共に過ごしました。一番印象に残っているのが大きな浴槽で大勢一緒におふろに入った事でした。我が家ではいつも風呂は母と一緒だったので大きなプールのような感じを受けた。十二歳のまだ子供である。
チサダネ号はまず沖縄の那覇港へ寄ったので親戚の皆さんが大勢最後の別れに港まで来てくれました。その時の写真に私の顔の半分に大きな傷が真っ黒く写っているのは船のベッドから間っ逆さまに落ちて頬っぺたを床にぶっつけて出来たもの。それから私は下のベッドに移された。最後のテープが切れる前、母の兄の伯父としっかり目が合った。その時言いようの無い深い悲しみが心の底からこみあげてきて涙が後から後から流れ、その悲しみは夜になっても胸から離れず、母は病気になったのかと船の医者に連れて行こうとしたが私は行かず泣いてばかりいた。今思うと、私の潜在意識はもう生きて会えないと直感的に感じたのかも知れない。それでも二日も経って新しい友達もでき、デッキに上り海を眺める日々とブラジル語学校(留学帰りの方達が教えていた)へ一日も欠かさず友だちと通った。おもしろかったのはお風呂だった。船が揺れる方へお湯が一緒にかたむくのです。友人の圭子さんと一緒に右に寄ったり左に寄ったりと慌しくお風呂を終えたものです。お風呂の後はゆかたで涼しくデッキで過ごしたり、鯨の潮吹きを眺めたり、たまには親切な船長さんから韓国語を習いました。
赤道祭では若い美しい方が女王様に選ばれていました。が赤道祭には悲しい出来事もありました。大勢の方達が二組に分かれての綱引きがあり、その時後の方でマストに綱を巻きつけて引っ張られないようにしたのでしょうか、巻きつけた綱から自分の指を抜くひまのないまま指がちぎれてしまうというとんでもない事件がありました。誰だったかも解りませんが、移住国でのご苦労が偲ばれとても気の毒だったと大人の方達が話しておりました。盆踊りにはちゃんと着物を着て踊りました。まだお人形遊びに夢中な私は、神戸で初めて母に買ってもらったお人形の洋服作りや着替えに精出して一生懸命だった。故郷では自分で作ったお人形に着物の着せ替えするのが楽しみだったし、友人も登校前に必ず我が家に寄って今日はバレリーナね、とか着物よとか賑やかに話しながら登校したのを思い出します。初めて花札のゲームを覚えたのも移民船の中でした。また私達子供は大プールのある一等船室のデッキに上がることも許されて、良く一等デッキを見物して歩きました。金髪や茶色の髪をした外国人が大勢水着でプール側に横倒しの椅子に寝ていました。沖縄でのアメリカ兵を思い出し、余り近寄らないようにしていたのを思い出します。だが彼等は優雅に世界一周の旅を楽しんでいたのですね。戦後十五年頃ですから、日本人は敗戦国人として、まだまだその頃は世界的に余り認められてはいなかった時代でした。
ここで祖母(父の母)が七十歳近くなって移民船にどんな気持で乗ったのかを想像するのも気の毒になる。沖縄では七人も元気な姉妹がおり、飛行機で八重島まで遊びにも行ったりしていた身分なのに。船の中の祖母は誰よりも早起きで、上品に身支度をして、髪もきちっとまとめて、真っ直ぐに背を伸ばした良い姿勢で食卓に座って食事配達の船員達とにこやかに挨拶していました。余り行きたくないブラジルでも、当時は長男に従うのが常識でしたから、表面はにこやかに振舞っても心の内の寂しさは深かっただろうと想像できますが、明治生まれは本当に強い精神で明るく、目の前に起こる時代の移り変わりを自然に受け止める聡明な所があったのだと思えてならないこの頃です。両親も香港の公園で楽しく過ごし、シンガプーラでもケープタウンの公園でも家族一緒に楽しんだり市場で買物したりと良き思い出になったと思う。両親にしてみれば初めての家族旅行で楽しい二ヶ月の船旅だったことでしょう。とにかくチサダネ号はこれが最後の移民を運ぶということもあって、非常に待遇が良かったのを覚えている。今でもチサダネの印のついたお箸は大事に持っています。
今年、日本移民百周年、また日伯交流年として両国において盛大な式典が、両国のトップレベル(政界、経済、文化)を交えて盛大に開催されます。同時に前移民収容所が、海外日系人会館として日本在住の日系人の心の拠り所として活用されるため、現在寄付を受け付けています。再整備された海外日系人会館には寄付者全員の氏名が記載されます。私が祖母と両親の名前で寄付したのは、地球の反対側まで家族移民として海を渡った両親への尊敬を込めてその勇気を称えるためです。良し悪しはともかく、前向きに人生を進むことを教えてくれた祖母や両親に感謝の気持です。チサダネ号は無事に七月十七日サントス港へ横付けされブラジルの生活が始まりました。"
As opiniões emitidas nesta página são de responsabilidade do participante e não refletem necessariamente a opinião da Editora Abril
Este projeto tem a parceria da Associação para a Comemoração do Centenário da Imigração Japonesa no Brasil